私が学校生活において一番忌み嫌っていたのは「学級」という制度だった。要は組織を作らせるのは統率する側の都合であり、軍隊式統制を保つための手段に過ぎないと思うのだが、生徒たちもまた「クラス全体で何かを成し遂げよう」みたいなイベントになると皆サラブレッドのようにそれに向かって邁進し、また放課後においてすら部活動と称して共同幻想に向かってもがくような真似を延々と行っていたのだった。
古くは江戸時代における五人組制度に見られるように、統率する側は強制力を以て人々の間に線引きをし、連帯責任を負わせることを行ってきた。それはあたかも奴隷同士をつなぐ鎖のような仕組みである。また「ヒトは群れたがる社会的動物である」とかつてある学者が唱えたように、人々もまた何かといえばお互いの共通点を見いだそうとするなどして、それを拠り所に群れを作りたがってきたわけである。宗教などはまさにそれだ。
近現代においても、人は社会において職場という組織に属することを求められ、また「結婚して一人前」という風潮を残し、婚姻という根深い連帯責任関係を結ぶことがよしとされてきた。そうした責任関係の中に人を押し込めることによって、個人の突飛な行動を封じ、社会秩序を防衛しようとしているのである。
翻って現在、インターネットの普及により、情報は「物理的な距離の近さ」から解放され、人は物理的に接近し群れを作ることの必然性からある面において解放された。にもかかわらず人々は、インターネット上においても互いの共通点を見いだそうとして「コミュニティ」を形成し、MMORPGなどの現実社会の枷から逃れることを旨とする場においてさえ「ギルド」の形成がゲーム内生活の円滑な遂行に必要とされているのである。
結局、ネットであれ何であれそれを構成する主体がヒトである以上、やることは同じということなのだろう。鎖につながれることでむしろ人は安心を得ているのかもしれない。
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